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2016年2月23日(火)

旧町名由来案内「旧谷中茶屋町」

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東京23区の中で面積が一番小さい台東区。

台東区??? と、いう方へは、

「浅草・上野」は台東区にあるんです!
と、伝えた方が良くわかていただけます。

その台東区の面積は10.11平方キロ。

10=2.5×4
本当にザクッとですが東西約2.5キロ×南北約4キロ。

私が居ります区内南部地域の鳥越から谷中の周辺へは、徒歩でも30分あれば到着いたします。
区内には循環バスがあり「東西めぐりん」に乗りますと100円で15分位でしょうか。

その谷中といえば!

徳川菩提寺 寛永寺

徳川家の菩提寺、歴代の将軍も眠る谷中の霊園。

中学生の頃は、こちらまで足を延ばして肝試し・・・

小さい頃は、谷中地域はかなり遠いと思っておりましたが、大人になった今では直ぐその先に感じます。

谷中茶屋町 天茶会

台東区内にお寺が多いのは、江戸初期にあった明暦の大火後に当時の下町から、まだ開拓が行き届いていなかった、この周辺に幕府の施策によって移ってきたものですが、上野の山の谷中周辺は、それ以前からもお寺はありました。

実際に歩いてみると、区内はなんでこんなにお寺ばかり?と、思うほど。

そして、お寺がある=墓所があるということ。
各お寺の門前で、著名な方の墓所の紹介板を本当に良く見かけます。

谷中茶屋町

 江戸初期には、この周辺も郊外の入口ですから頷けるところではあります。

それでは、いつもの通り「下町まちしるべ」を書き写してみたいと思います。
谷中の由来については旧谷中町で、ご紹介しておりますので、茶屋町の由来について、

***旧町名由来案内「旧 谷中茶屋町」***

明治二年、天王寺表門前新茶屋町が改められ、谷中茶屋町が誕生した。
天王寺は、応永の頃(1394~1427)に草創され、日蓮宗長陽耀山感応寺と号していたが、元禄十二年(1699)、幕府の命令により天台宗に改めらえた。そのため檀家が離れて寺の運営はおもわしくなくなり、同十五年、住職の仏頂院は経営立て直しのため茶屋町を造るべく、寺社奉行に町屋の解説を願い出た。翌十六年に許可され、感応寺表門新茶屋町ができた。その後、天保十四年(1843)に、感応寺が天王寺に改称したことから、町名も天王寺表門前新茶屋町に改められた。
明治以降、茶屋町という華やかな街から、次第に住宅街へとかわってきた。
*******下町まちしるべ*******

 幕府の命で改宗もさせられてしまうのですね。
また、それが茶屋町を創る歴史になっているとは驚きです。昔の茶屋町は、繁華街。すなわち、お坊さんが繁華街を作ってしまうのですから!

台東区地図内の谷中茶屋町の位置図
谷中茶屋町位置図

しかし、今では閑静な住宅街になっております。

現在の地図にあてはめた谷中茶屋町の区域図
谷中茶屋町区域図

もちろん、お寺はたくさん残っております。

46番目の紹介は「谷中茶屋町」の紹介でした。

台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧

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