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2014年3月31日(月)

旧町名由来案内「上野恩賜公園」

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早咲きの桜は、既に見ごろを迎えております。

「上野恩賜公園」。

上野恩賜公園H26.3.28

この画像は、一昨昨日25日金曜の画像です。

恐らく今週末に見ごろを迎えるかと思います。

上野恩賜公園早咲の桜

さて、表題の町名「上野恩賜公園」。現在も上野公園の住所表記があります。

・・・旧町名復活しないかな~と思い、願い、まずは知識の吸収からと地元台東区の旧町名を調べ始め、探し当てた、この旧町名案内シリーズ

西郷さんの銅像から、公園の中ほどにかけての道。

上野恩賜公園の桜まだ少し早目

この辺りは、その昔は東叡山寛永寺の参道。

「町名由来案内 下町まちしるべ」の看板があった公園中央の交番あたりも参道の中ほど。

上野恩賜公園へは約10分

東京国立博物館の所に大きな本堂があったそうです。

さすが、比叡山延暦寺に見立て創られた「東叡山寛永寺」・・・

今は、こうして公園になていますが、いつ頃から公園になったのでしょうか?

上野恩賜公園

それでは、25番目の紹介になります。
町名由来案内板、例によって書き写してみたいと思います。

***旧町名由来案内「旧 上野恩賜公園」***

江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、堀家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応四年(1868)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。
恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だたものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模景観はもとより施設などが我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。
上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言して実現したものである。
*******下町まちしるべ*******

 幕末に、この上野で戦争があったんですね。

ほんの150年前の話。んーーーしかもかなりの激戦だった様子。

台東区地図内の上野恩賜公園の位置図(緑部)

上野恩賜公園位置図

もし寛永寺が残っていたとしたら、どれほど壮大だったのでしょう。。

そして、ボードワン博士がいなかったら病院になっていたかもしれないなんて。

色々な歴史の中で、現在の文化の森「上野公園」になった訳ですね。それも比較的近年です。

現在の地図にあてはめた上野恩賜公園区域図(緑部)

上野恩賜公園区域図

その昔にあった寛永寺は「比叡山延暦寺」に習い作られましたが、お寺だけでなく琵琶湖に見立てた『不忍池』があります。

琵琶湖には弁天様の居る竹生島があります。そして、不忍池の中央にも弁天様があります。

不忍池は琵琶湖に見立てた池なんです。

今でこそ、公園の奥ほどに寛永寺はひっそりとありますので、比叡山と琵琶湖の対比には?マークがついてしまいますが、当初の位置関係をみると「なるほど!」と、思う訳です。

あっ!!!不忍池湖畔にも「下町まちしるべの看板」発見!!!

上野恩賜公園二つ目まいっか

あれ、、同じ「上野恩賜公園」の看板でした。。

そりゃそうだ。

25番目の紹介になりました『上野恩賜公園』の紹介でした。

台東区を散策なさる時も、お役にたてば幸いです!
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