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2013年12月10日(火)

旧町名由来案内「旧浅草新福井町」

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シーリズ13番目の紹介になります下町台東区の旧町名由来。

そもそも、なぜこの旧町名の由来を調べているのか?

シリーズでご覧下さっている方は、どうぞ下へ飛ばしてくださいませ。

なぜ調べ始めたのか?といいますと、
お木様(おこさま:木札)のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。

現在の地名を入れる方も多くいらっしゃいますが、
古い名称でお入れする方も本当に多いんです。

お仲間で揃ってご依頼の時は、特に多いんです。

台東区旧町名一覧

例えば、武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、
鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、

それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。

現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。
しかしながら、これだけご依頼をいただくということは、今でも深く印象に残っているということ。

特に江戸の地名などは、生活から出てきた町名が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、

元三嶋神社鮫洲八幡祭深川祭

旧町名は、同じ町名でもせいぜい二丁目くらいまでしかなく、現表記では○○五丁目と○○七丁目とか、広すぎてどこが何丁目だかわからない。

鳥越祭三社祭神田祭

一方旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も広くないので、とにかく分かりやすい!

これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ

浅草新福井町

せっかくならと自分の足で探しているのですが、公園にあったり街中に突然あったりと

浅草新福井町 めぐりん停留所

 町を知ることにもなりますので楽しみながら探しております。

それでは、例によって旧町名由来案内より書き写してみたいと思います。

***旧町名由来案内「旧 浅草新福井町」***

その昔、この地は鳥越村の内にあった。延宝二年(1674)出羽秋田城主佐竹右京太夫の邸地とされたが、享保三年(1718)に西北の隅を分割して同族の佐竹左近将監の邸地となった。その後、大きな変化もなく幕末をむかえるが明治五年(1872)二邸地を合わせて新福井町は誕生した。さらに昭和九年六月一日、東側半分は旧浅草橋二、三丁目となり本町の区域は定まった。そして昭和三十九年、住居表示の実施で現在の浅草橋一、二丁目になった。町名の由来は、明治五年に本町ができたおり福井町に隣接してできた新しい町という意味で名付けられた。なお、福井町は元和四年(1618)からあった越前福井藩邸跡にできた町にちなんで享保十五年(1730)に名付けられた。
「新福井町の弁天様」
かつて、新福井町には弁天堂があった。大正十二年の関東大震災で焼失したが町内の有志により、それまでにも増して荘厳なお堂が再建された。毎月十三日と二十六日が縁日で、福井町通りには夜店が多数出てにぎわった。
その後戦災で焼失し、現在は浅草橋一-三十三-六にまつられている。
*******下町まちしるべ*******

浅草橋の駅前にあるヒューリックホールは元福井中学校の跡地。
福井の名も無くなりつつあります。残念。。

台東区地図内の旧浅草新福井町の位置図

浅草新福井町位置図

江戸後期の藩主「佐竹様」でなく、その前領主「福井藩」古きを尊重してつけられた町名なんですね。

現在の地図にあてはめた旧浅草新福井町の区域図

浅草新福井町区域図

江戸後期の古地図を見ると、佐竹藩の御屋敷なのになぜ?

と思っていたので納得しました。

古きを尊重する文化、、守りたいな~

⇒旧町名案内 町名一覧
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