浅草鳥越
名入れ 彫刻木札専門店
代表職人芳雲の木育て日記

ブログサイト

2013年12月9日(月)

旧町名由来案内「旧浅草上平右衛門町、浅草左衛門町」

カテゴリー

気がつけば、12町目の紹介になります。

さて、旧町名復活を願って、まずは地元を知ることから!と言って始めた旧町名由来案内探し!その後も徐々に発見しつつあります。⇒旧町名案内 町名一覧(随時更新)

先日の「旧浅草柳橋」は、橋の名前から町名が付けられました。

ニワトリが先か卵が先か!

さて、この橋は、「左衛門橋」、橋を通っている道は「左衛門橋通り」

浅草、左衛門橋

「左衛門橋通り」。片側1車線の道ですが通りの名にまでなっており、橋より北上しますと、当店フダヤドットコムのすぐ近くを通り、現鳥越1丁目と2丁目の境の道でもあります。

今度も、橋の名が先か・・それとも町名が先か、、創造すると何となく分かる気がします。

この場合「人の名前~町名~橋の名」と考えるのが普通でしょうか。

こうして、橋の名、通りの名、学校や公園の名前として旧町名が残っている事がよくあります。

という訳で12町目の紹介『 旧浅草上平右衛門町、浅草左衛門町 』。

下町まちしるべ 旧浅草上平右衛門町、同左衛門町

想像の通り町名が先か?柳橋と同じく橋の名が先か?

それでは、例によって旧町名由来案内より書き写してみたいと思います。

***旧町名由来案内「旧 浅草上平右衛門町、同左衛門町」***

浅草上平右衛門町を開いたのは、平右衛門という人物である。
天正十八年(1590)家康入国に従い江戸へ入り、元和二年(1616)、家康が浅草寺へ参詣した際、この地に町屋を開くことを命じられた。町名は、平右衛門が住んでいる土地ということで付され、この地の名主になった。
当初、町名には上下の区別はなく「浅草平右衛門町」であったが、俗に浅草御門(現浅草橋南詰にあった)より東側を下平右衛門、西側を上平右衛門と称していた。明治五年になり正式に上下二町にわかれた。昭和九年(1934)、上平右衛門町は二分され、東側を浅草橋一丁目とした。残った西側部分も昭和三九年の住居制度の実施で、浅草橋1丁目となった。(左図町名遍歴表参照)
一方、浅草左衛門町が起立したのは、明治二十三年(1890)である。この地には、慶長(1598)以来、徳川譜代大名庄内藩酒井左衛門尉邸(明治元年現在で十二万石、領主酒井忠宝(ただみち))があったが、明治元年(1868)に公収され、同五年に町屋が開かれた。当初、平右衛門町の隣にあったことから、新平右衛門町と称していた。後に、神田川に望むこの地を俗に左衛門河岸と呼んでいたのをとって町名となった。

浅草平右衛門町
|-浅草上平右衛門町
∟浅草橋一丁目  (S9.6)-|
∟浅草上平右衛門町(S9.6)-|_浅草橋一丁目の一部(S39~)
|-浅草下平右衛門町
∟浅草橋一丁目  (S9.6)-|
∟浅草柳橋一丁目 (S9.6)-|_柳橋一丁目の一部(S39~)
*******下町まちしるべ*******

台東区地図内の浅草上平右衛門町、同左衛門町の位置図

浅草上平右衛門町、同左衛門町位置図

方や名主様からついた町名、方やお武家様からついた名前。

現在の地図にあてはめた浅草上平右衛門町、同左衛門町の区域図

浅草上平右衛門町、同左衛門町区域図

やはり、橋や道の名前として残るのはお武家様の方なんでしょうか?・・

⇒旧町名案内 町名一覧

 

地名 浅草橋

旧町名シリーズ、12町目の紹介「上平右衛門町、浅草左衛門町」でした。

⇒旧町名案内 町名一覧
ブログ一覧に戻る

◇復活願!旧町名のこと

の記事

◇復活願!旧町名のこと の記事一覧