黒門町(くろもんちょう)
と、聴いて真っ先に思い浮かぶのは・・・
「黒門町の師匠」として知られる、8代目桂文楽師匠でしょうか。
この文楽師匠がいらっしゃった黒門亭は、この元黒門町より少し南にありますが、この号で紹介の元黒門町は、これまた寄席で知られる上野の鈴本演芸場がある周辺の旧町名です。
そもそも、なぜこの旧町名の由来を調べているのか?
この町名で41番目!⇒旧町名案内 町名一覧は、記事の下にも入口はありますので、このまま引き続きご覧ください。
なぜ調べ始めたのか?といいますと、
お木様(おこさま:木札)のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。
現在の地名を入れる方も多くいらっしゃいますが、
古い名称でお入れする方も本当に多いんです。
町名だけ「黒門町」と入れたり、この町名の場合には「元黒」のように略して入れる方もおいでになります。
また、武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、
鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、
それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。
現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。
特に江戸の地名などは、生活から出てきた町名が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、
この元黒門町も、祭礼時の町会名としては残っております。
旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も適当な大きさの事が多く、とにかく分かりやすい!
これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ
上野不忍池の池畔から南に広がるこの町名。
残念ながら、この町名も・・・現町名では残っていないんです。。
旧町名復活すればいいのになぁ・・・
の、想いを込めて旧町名由来案内より書き写してみたいと思います。
***旧町名由来案内「旧 上野元黒門町」***
本町の町名ははじめ、上野黒門町と呼ばれていたが、寛永三年(1626)に新・元の二町になった事にことによって起立した。町名の由来は、寛永二年(1625)に創建した東叡山寛永寺の総門が黒いことからこう呼ばれていた。
元禄十年(1697)、幕府は広小路を造るため町内東側の地を長さ約八十五メートルにわたり、御用地としてとして召上げた。このため町域は狭くなったが、その後形成されていった仁王門前町や仁王門前上野家来屋敷等を明治二年(1869)に合併して、町としての形態を整えた。
昭和三十九年(1964)、住居表示の実施で全域、上野二丁目に編入された。
上野黒門町は上野山内の出入口、不忍池に面して町があった。不忍池が四季の風景に富んでいたせいか、江戸、明治を通じて著名な料理屋が多かった。現在も料理屋は多い。また、不忍池畔には下町風俗資料館があり、下町の文化や風俗を資料として保存、展示している。
*******下町まちしるべ*******
寛永寺の総門であった黒門ですが、良く知られる事になったのは、わずか150年前にあった上野戦争の大激戦地であった事で知られております。
旧幕軍と薩摩藩、長州藩を主とする新政府軍との間で行われた戦争ですが、厳密にいうと147年前に上野で内戦が遭ったとは今では想像もつきません。
この黒門、実際はどの辺りにあったのかといいますと、
上野公園を南から噴水や国立博物館の方へ向かう手前
右手にお堂が見えるその階段の脇に、黒門跡の石碑があり、
遺跡に近いこの當所に六代目黒門を建てた。とあります。
何々!!昭和三十九年に六代目!
どこ???あれ、門柱の跡のような石はあるけど・・・
あれ?黒門・・・
どこへ行ってしまった?
調べたところ、走って行けそうな所に移設されたそうなので、いずれ番外編としてお伝えしたいと思います。
旧町名の事から思わぬ脱線をしてしまいましたが、こうしたことからも、旧町名は歴史的文化遺産だな~と復活を願うばかりです。
台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧
◇復活願!旧町名のこと
の記事