何よりも願う事、風化させないこと。
亡くなられた方のご冥福をお祈りすることはもちろん、
自然の中に生きるものとして、避けては通れない道でもある。
「戦後」最大級の災害と言われる「東日本大震災」。
何につけても良く使われる言葉、「戦後○○」。
4年前2011年3月11日は東日本大震災、
1945年3月10日・・・から70年経った今、「戦後」という敬称が形容詞となりつつあると感じることが怖い気もする。
その70年前の3月10日は東京大空襲があった日。
繰り返すようだが、戦後といっても東京が焼け野原になってから70年しか経っていない。
その70年の中で僕は今年で45年生きた事になる。
生まれた年を起点にすると戦争の方が圧倒的近い、、、そんな歳だ。
だから、僕なりに忘れないために・・・
3月10日、3月11日を自分の故郷の事を想う日として、近い日に自分の故郷の事について書こうと思う。忘れないために・・・
そう思った時に目に付いたのが我が「鳥越一丁目町会の50周年記念誌」。
平成10年とあるので、今から17年前が50周年。
起立は昭和23年鳥越文化会として町会が発足し、昭和28年に鳥越一丁目町会と改称とあります。
現在は、少し寂しくなってしまった「おかず横丁」として知られる鳥越商盛会も当時は、こんなに沢山のお店があったのです。
八百屋さん、魚屋さん、肉屋さんはもちろんのこと、
今では想像もつかない、桶屋さんがあったり、木炭屋さんがあったり、お米屋さんもこの狭い中に4軒もあったのです。
それだけ、人が大勢居たって事ですね。。
あれ!!!
「鳥越キネマ」って映画館!!!
隣のページの鳥越一丁目、昭和45年当時の区域図には!
フダヤドットコムの母体である蒲生彫刻、当時は「蒲生彫刻所」も見られます。
昭和45年(1970)、僕ちゃんの生まれた年!
僕の生まれた時には、残念ながら映画館は無くなっておりましたが、
その少し前の鳥越には映画館が二つ!!!
少し遡って明治期には、中村座(旧猿若座)があったということは!
歌舞伎も鳥越の地に一時期あったということなのです。
ブログ内でも更新中のシリーズ「旧町名復活願」の中で我が鳥越一丁目町会にも紹介があるとおり、浅草六区に続く盛り場は、この鳥越1丁目であったそうです。。
それは、戦災で辛くも焼け残った・・・いやいや違う!
地元の方々が、火を消しあって残した町だからこそ!!!
爺さんの年代の方からは、焼夷弾が落ちる度に
「あそこに落ちたぞ!!!」と皆で消し合ったという話を度々聞きながら、ここ鳥越の地で私は育って参りました。
あっ!
先輩たちも、子供のころから御神輿を・・・
故郷を思い出すこと=昔の事を忘れない=風化させない=忘れないこと
僕の中の繋がりとして3.10 3.11を忘れないために、故郷=地元の事に触れようと誓った2015年の想いをここに残したいと思います。
★芳雲のルーツ.想い
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