浅草鳥越
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代表職人芳雲の木育て日記

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2015年3月12日(木)

3.10 3.11 忘れないため、僕なりに故郷の日にします

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何よりも願う事、風化させないこと。

亡くなられた方のご冥福をお祈りすることはもちろん、
自然の中に生きるものとして、避けては通れない道でもある。

「戦後」最大級の災害と言われる「東日本大震災」。

何につけても良く使われる言葉、「戦後○○」

4年前2011年3月11日は東日本大震災、
1945年3月10日・・・から70年経った今、「戦後」という敬称が形容詞となりつつあると感じることが怖い気もする。

その70年前の3月10日は東京大空襲があった日。
繰り返すようだが、戦後といっても東京が焼け野原になってから70年しか経っていない。

その70年の中で僕は今年で45年生きた事になる。
生まれた年を起点にすると戦争の方が圧倒的近い、、、そんな歳だ。

だから、僕なりに忘れないために・・・

3月10日、3月11日を自分の故郷の事を想う日として、近い日に自分の故郷の事について書こうと思う。忘れないために・・・

そう思った時に目に付いたのが我が「鳥越一丁目町会の50周年記念誌」。

鳥越一丁目町会 50周年記念誌平成10年50周年の鳥越1丁目町会

平成10年とあるので、今から17年前が50周年。

起立は昭和23年鳥越文化会として町会が発足し、昭和28年に鳥越一丁目町会と改称とあります。

現在は、少し寂しくなってしまった「おかず横丁」として知られる鳥越商盛会も当時は、こんなに沢山のお店があったのです。

昭和24年 鳥越商盛会 東
※昭和24年 鳥越商盛会 東

 八百屋さん、魚屋さん、肉屋さんはもちろんのこと、
今では想像もつかない、桶屋さんがあったり、木炭屋さんがあったり、お米屋さんもこの狭い中に4軒もあったのです。

それだけ、人が大勢居たって事ですね。。

昭和24年 鳥越商盛会 西
※昭和24年 鳥越商盛会 西

あれ!!!

「鳥越キネマ」って映画館!!!

鳥越日活館

隣のページの鳥越一丁目、昭和45年当時の区域図には!

フダヤドットコムの母体である蒲生彫刻、当時は「蒲生彫刻所」も見られます。

鳥越1丁目31 蒲生彫刻所
※昭和45年鳥越1丁目31-4 蒲生彫刻所

昭和45年(1970)、僕ちゃんの生まれた年!

僕の生まれた時には、残念ながら映画館は無くなっておりましたが、
その少し前の鳥越には映画館が二つ!!!

少し遡って明治期には、中村座(旧猿若座)があったということは!
歌舞伎も鳥越の地に一時期あったということなのです。

江戸、大正期から明治期の鳥越

ブログ内でも更新中のシリーズ「旧町名復活願」の中で我が鳥越一丁目町会にも紹介があるとおり、浅草六区に続く盛り場は、この鳥越1丁目であったそうです。。

それは、戦災で辛くも焼け残った・・・いやいや違う!

地元の方々が、火を消しあって残した町だからこそ!!!

焼け野原となった鳥越。徳川入府の頃の鳥越村
※左ページ黒い部分が空襲で焼け残った地域

爺さんの年代の方からは、焼夷弾が落ちる度に
「あそこに落ちたぞ!!!」と皆で消し合ったという話を度々聞きながら、ここ鳥越の地で私は育って参りました。

あっ!

先輩たちも、子供のころから御神輿を・・・

昔のタル神輿 鳥越一丁目町会
※昭和40年以前の子供タル神輿

故郷を思い出すこと=昔の事を忘れない=風化させない=忘れないこと

僕の中の繋がりとして3.10 3.11を忘れないために、故郷=地元の事に触れようと誓った2015年の想いをここに残したいと思います。

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