喜ぶ笑顔のために!正直で真っすぐなものづくり「四代目芳雲のトリセツ」
- 1.「家の4代目です!」と連れ回してくれた2代目の爺さん
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2.金型で作る品物が世の中から消え…金型消滅の危機から木札との出会い
- メタル、バッジなど需要の変化
- 喜ぶ顔が見えない仕事、見える仕事
- 友人サイトで販売した銀製ネームタグ
- 木札を作り始めた経緯
- 3.もうすぐ100年 蒲生彫刻所~(株)蒲生彫刻 へと伝えられてきたこと
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4.木札づくりで目指す芳雲の世界観
- 凝り性でしてきたこと、興味をもったこと
- リアルタイムの良さを実感!あの頃この頃のこんな経験!
- 蒲生彫刻4代目、木札職人芳雲が目指す木札づくり
1「家の4代目です!」と連れ回してくれた2代目の爺さん
東京下町、台東区鳥越にある記念メダルやバッジなど徽章系の金型工房、「蒲生彫刻所」の4代目として昭和45年9月(1970庚戌)に誕生しました。
ここ鳥越は千貫神輿のある鳥越祭が有名で、都内随一と云われる大きな千貫神輿が威勢よく細い路地を練りゆく様は壮観で、毎年6月初旬に多くの人で賑わいます。
そんな僕は爺さん子。
父である3代目は職人気質の一辺倒、工房でコツコツ作業をするのが好きなタイプ。
一方、社交的な2代目であった爺さん。
隠居中や他界してからも、「蒲生の爺さんには本当にお世話になった!」と絶えず誰からも耳にするほど、面倒見が良くて明るい気風のいい爺さんでした。
そんな爺さんの膝の上で、「大きくなったら鳥越で彫刻屋さんになるんだぞ!」と。
外回りへも「家の跡取り四代目です!」と頻繁に連れ回されては、愛嬌良くふるまう芳雲くん。
今考えると、生真面目でコツコツと仕事をこなす3代目の父が不得手な事を、自然と仕込まれていたのかなぁ。そんな事とは露しらず、お菓子やお小遣い目当てに爺さんに付いて回った幼少期でした。
2金型で作る品物が世の中から消え…金型消滅の危機から木札との出会い
メタル、バッジなど需要の変化
21歳(1991)で家業に就き金型彫刻を17、8年はしたでしょうか。
当時から既に金型自体の需要が減り始めていたと思われます。
スーツの襟へ誇りでもあった社員章バッジはカード型のIDへ、学生服がブレザーへと変わり帽章、金ボタン、襟章など、時代的な趣向の変化により金型の需要は減るばかり。
そればかりか人件費の安かった近隣アジア諸国に生産技術が伝わり、数がまとまる大きい仕事は勢いよく海外へ流出。
小ロットでも金型は必須ですが単価高の要因となり受注に至らず、また1型作ると相当期間の維持が可能、と明るい材料が見えない日々。
さらに徽章系の金型彫刻の減少を余儀なくされた大きな出来事が!それは、この後に一世を風靡する携帯電話やコンパクト電化製品との相性の悪さ!
金属製品は、ネックレスなど単体での使用時はなんら問題ありません。
しかし、携帯電話などプラスチック製品に付けると、傷や塗装が剥がれる要因となったのです。
したがって、携帯ストラップを始めキーホルダー全般がプラスチック・ゴム・布地・木材などの非金属製が主流となり、金型の行く先には暗雲ばかりがたちこめるのでした。
喜ぶ顔が見えない仕事、見える仕事
徽章系の仕事は分業が主流で、金型彫刻だけが生業でありました。
エンドユーザーさんと接する機会もなく最終製品すら手にすることは稀という実情。
時折、全国放送の大きなスポーツイベントや大会の表彰式で、「あっ!自分が彫刻したやつ!」と映像で目にする機会がありました。
(再制作時に見本として頂戴した大きなイベントのメダルなど)
職人冥利で誇りでもありますが、商材や金型自体の良さを喜んでくださっている訳でなく、より以上の大きな喜びは感じなかったのです。
一方で近しい仲間や知り合いの記念品として、キーホルダーやゴルフのグリーンマークなどを作りました。
自分が手掛けるのは金型彫刻だけですが、企画からデザインした品々!
皆さんが手にした瞬間に見える嬉しそうな笑顔!そして実際に使っている光景は、何にも変えがたい喜びであり興奮を覚えたのです。
そういえば!婚約指輪もデザイン、彫刻して仕上げもしたなぁ。
友人サイトで販売した銀製ネームタグ
こうして、金型彫刻の技術も一通り習得し、自分で企画して製品も作れるようになった。
そんな時、学生時代の仲間が手掛けていた某ネットサイトの片隅で銀製ネームタグ(シルバードッグタグ)を販売することになりました。
商品の企画や製作までは私の担当、販売するのは友人が運営するネットサイトという形態です。当時はAmazonや楽天、SNSも存在しない日本のネット通販創成期。
Yahooも検索ポータルサイトで、ネット広告、ショッピングやオークションサイトもない当時、友人の運営する某サイトは抜群のアクセス数を誇示していたため、商品販売はド素人同士でありながらも、「何とか売れるんだな」と。
販売していた銀製ドッグタグの一部。ベルトの表裏デザインや文字の深さなど、今でもいける?!
しかし、銀製ネームタグの販売も友人サイト運営の都合により突然終了を迎えます。
この頃は、ネットサイトの知識も乏しく、在庫の山を前に途方に暮れ・・・
やがて自分のこんな思いに気がつき始めたのです!
自分で責任を持って作ったものを、自分で責任を持って販売できないか?
もっと、もっと、お客様に近い仕事がしたい!!!
木札を作り始めた経緯
金型彫刻の工程を簡略化するためにレーザー彫刻機を導入したところ、「この機械で木も彫れるよ」と知人から耳にし、浅草鳥越という江戸に縁のある土地柄から、木札を作ってみることにしたのです。
銀製ネームタグも金型の減少を補うには至らず。それでも金型彫刻の非効率な手作業工程を簡略化できないか?ということで導入したのがレーザー彫刻機でした。
新品なんか買えず中古がやっと。がしかし!数年落ちの中古機だったことが、後にフダヤドットコムの根幹を形成するのです!
なんで中古機が根幹なのか?
当時の新品レーザー彫刻機は、板材から画一的な木札の形状に切り抜く機能がありました。しかし、中古機にそんな性能はなく、木材は自らの手で製材するしかありません。
『木肌の表面は磨くほどに、見た目や手触りもよく温もりを感じる』
『四隅だけでなく角になる部分や断面の鋸刃の目も丁寧に処理しよう』
『個体差や部分でも材質に違いが!見極める仕入れが、まず重要』
木材に直接触れる機会が圧倒的に増えることで、作りに合った素材選びの重要性にも気付かされます。
加えて、彫刻前の下地作りから丁寧な仕上げが経年変化による味わいを深めることも分かり、素材の質感を活かした綺麗さや手触りを重視する作りになっていったのです。
はなから木材の切り抜きがでる機械だったら・・・
話がそれましたが、ひょんな一言がきっかけとなり、工房の前に少々の見本と注文用紙を置くところから木札の販売が始まりました。この時点では、お店の名前はありません。
そして、2004年1月にWebサイト「フダヤドットコム®」を開設し店舗名が誕生したのです。
この後、店舗と工房の改装2度、素材やサイズ展開の変更、度々のWebリニューアル経て、2021年1月Webサイト2店舗目「fudaya.jp本店」を開設し現在に至ります。
3もうすぐ100年 蒲生彫刻所~(株)蒲生彫刻 へと伝えられてきたこと
私は、4代目ですが初代のことは正直よく分かりません。
初代と2代目は師匠と丁稚の職人という間柄、徒弟制度の名残がある当時に初代が早世したからか、お家の事情は伝わっておりません。
分かった事実として千代田区九段の本家から、神田和泉町へ初代泰次郎が大正14年(1925)5月26日に分家と戸籍にあり、ここが創業で当時の名称は「蒲生彫刻所」。
やがて戦後の混乱の後、2代目が昭和28年(1953)現在の地、鳥越に居を構え約70年。
メダルやバッジなどの徽章業界は、国の硬貨を作る大蔵省(財務省の前身)の技術が、需要と共に市中に広まったのが業界の始まりで、初代の蒲生泰次郎は、その徽章系彫刻の名人だったと耳にしました。
2代目である爺さん曰く、「手彫りは、真っ直ぐの線を綺麗に彫るのが一番難しいんだ!丸も簡単じゃないぞ!何年も何年も真っ直ぐな線をずっと練習して、やっと一人前になれるんだ!」今でも忘れられない爺さんの言葉。
3代目の父曰く、「仕事を直接教えてもらったことはない。当時の仕事は爺さんの作業では事足らない面も出始めていた。補うために訓練校に通いながら、自分なりに常に工夫を重ねていた。」と、僕も父から教えてもらったことは限りなく少ない。
3代目の父は、平面を彫刻する機械で、半立体的に仏像などの造形物を彫刻することを得意とし、その腕が良い職人と云われました。
通常4、5工程かける仕事を、独自にアレンジした1つの流れで手早く上手く彫刻したのです。
弊社オリジナルの象嵌木札は「3代目が銀細工の金型を彫刻」。
出来上がった銀細工を4代目の私が木札に象嵌した蒲生彫刻の歴史が生んだコラボ作品。
4代続く中で「蒲生彫刻の仕事はこうであるべき!」というような社是もありませんが、今、歴史などを書き起こして実感したこと。
『代々各々が、今、必要なことを知り、創意工夫を重ね彫刻業を営み、先代は見守る』こう引き継がれてきたのが〔蒲生彫刻〕という看板なのだと。
初代は稀代の名人と言われ、2代目は社交的で気風のいい職人、3代目は生真面目な腕のよい職人。
4代目である私の役目・・・大好きだった爺さんの膝の上で聴いた「鳥越で彫刻屋さん」を受け継ぐことなのか。爺さんのような気風のいい職人になりたい。
4木札づくりで目指す芳雲の世界観
凝り性でしてきたこと、興味をもったこと
自他ともに認める凝り性で、ハマるとそればかりになっちゃう。
小学生の頃はサッカーや野球、中学ではバスケットボール、高校からビリヤードにハマり家に帰らない日々、携帯電話もない頃で音信不通、安否不明、今や懐かし。
その頃から家業に就くまでの4、5年間に様々なアルバイトをしたっけなぁ。
居酒屋のホール、喫茶スペースのあるケーキ屋でホール係やケーキ作りもした、プールバー店員、コンビニ店員、運送会社(4t車まで)などなど
まぁ何事にも一生懸命はこの頃から変わんないのかも。
小器用な面があったからか、どこでも気に入られ重宝されたんじゃないかな。
21歳で家業に就いてからはアルペンスキーにハマった。トンバとかオーモットとかの時代。区民大会で優勝とか国体予選にも出走できるくらいまでは頑張った。ハマるとそればっかだし。
ゴルフはですね~小さい頃に練習場には連れてってもらったけどコースは大人になってから。そう、歴だけは非常に長い!けど色々とさまよった分、結構なブランクあり。
お誘いあればなるべく参上したいと思う飲みゴルファーです。
リアルタイムの良さを実感!あの頃この頃のこんな経験!
自分でプレイすることも好きですが、観戦、観劇も大好き!テレビも、なるべくリアルタイム。でも、やっぱ生に勝るものはない!
現在では両国に戻った国技館、小さい頃は隣町の蔵前にあり10分足らず。
相撲は平日の立見席が小学生無料だったから毎日のように通い詰め、楽日には気軽に支度部屋にも出入りできた時代、サインは白星の時にお願いしました!
プロレスもよく観にいったなぁ~何といっても僕らのヒーローは初代タイガーマスク!
この頃の実体験が「生やリアルの良さ」を感じる今に繋がっている。テレビに出ているヒーロー達が繰り広げるドラマチックな展開を、目の前にしたのですから。
また20代中盤、1か月半に渡りアメリカからヨーロッパへバックパッカーに出してくれました。
実際に行かないと分からない、ツアーでは味わいきれない、異国の町の雰囲気や建造物、町の人、物、事から放たれる空気感を肌で感じた経験は、今でも大きな影響をもたらしています。
その情熱は冷めず、木札の仕事を始めるようになってから、大好きなイチロー選手を観にシアトルへ、シルクドソレイユのショーを体感するためラスベガスへも行きました。
リアルな息遣いや臨場感を味わうことで感性が揺さぶられるのか、勇気に溢れ奮い立ってくるのです。
気になるところ、気になるもの、こと、人が居るところへ実際に足を運んで空気間を感じてみたい。この思いは、いつになっても尽きそうもありません。
※踏み入れたことがある国
〔アメリカ(グアム・ロサンゼルス・ハワイ・ラスベガス・サンフランシスコ・サンディエゴ・ニューヨーク・シアトル)・ブラジル・パラグアイ・アルゼンチン・イギリス・フランス・スイス・イタリア・スペイン〕
蒲生彫刻4代目、木札職人芳雲が目指す木札づくり
木札だけを扱う専門店フダヤドットコム。
紐で提げる大きさまでに特化し、素材を活かした無塗装手磨き仕上げを追求する彫刻木札職人です。
21歳の時に彫刻業に従事して以来、常に心掛けているのは、「自分で持っていたいものを作ってお届けする!」こと。
欲しいものだけを作るって意味ではありません。
江戸職人の物づくりに対する概念的な表現で、≪神は細部に宿り給う≫という言葉があります。
『人の手が入ることにより職人の想いが魂となって作り上げるものに宿り、個性となって表れる。』
世の中に存在する全ての「もの」には作り手の意図や思いが形となって表れますよ! 良いことだけでなく、さぼったことや雑にしたことなど悪いことも含め考え方が形になって現れますよ!って。
ですから、皆様が手にした瞬間に「誇れるような!大事にしたいな!」と思っていただけるように、『自分が持っていたい』と思える納得のいく仕事がしたいのです。
もう1つ大切にしている言葉。
大好きなイチロー選手が前人未到の9年連続200安打を達成した時の語録。
「これという最後の形はない。これでよしという形は絶対にない。でも今の自分の形が最高だという形を常に作っている。この矛盾した考えが共存している事が、僕の大きな助けになっていると感じている。」
『今の自分の形が最高だという形を常に作る』ということはその時々の持ちうる技術を基に、一所、一生懸命に心を込めて取り組み、向上心を持って精進を怠らない。これを当たり前として続けることだと信じて疑いません。
単なる木札ではなく、お客様の思いを込める木札という作品に仕上げお届けする。
さらに木札で【 世界平和 】ということを真剣に考えています。
どういうことか?
人の一番小さい単位は「自分自身」、次に、家族とか親戚、親友、お友達が近いところでしょうか。さらに、社会へ出ますと同僚、上司、お得意様、またその先のご家族、お知り合い、ご親戚・・・
贈答用もそうですが、ご自身用でも、手にした瞬間に「これいいね!なんか温かいね!」って笑顔に、その輪が広がれば諍いは起こらないのではないか!?と、妄想してはいけませんか!?
ホッと、できるような安心をお届けする。
差し上げた相手、手にするご自身との関係が木札を通じて良好になり平和になる!!!
そして皆様の想いが加わり『職人蒲生芳雲の彫刻木札』は誕生します。
『喜ぶ笑顔のために! 正直で真っすぐな ものづくり』
これからも極めるべく精進をしてまいります。