台東区谷中。
言わずと知れた「谷中霊園」の在所として『徳川家』の墓所があることでも知られておりますが、徳川家の寛永寺に限らず大小たくさんの御寺には様々な著名な方も永い眠りについている場所でございます。
次の一万円札の肖像として決まっております「渋沢栄一翁」の墓所も谷中にございます。
この台東区の旧町名シリーズ!何と半年ぶりの更新となってしまいましたが、まだまだご紹介できる看板=旧町名がございますので、引き続きボチボチ発信してまいります。
かれこれ65町会を探してきておりますが、東京23区で一番小さい我が台東区は10キロ平米余りであります。
地元大好きは私でございますので、せめて自分の足で全ての町名を探そうと息巻いているのですが・・・
いやいや、今回のこの町会は驚きました!!!
何が驚いたって!こんな細い路地にも看板あるんか~~~い!
台東区は、自転車が一番便利な交通手段と自負しておりますが、例え自転車で看板を見つけたとしても写真は撮らず、必ず後日に地元鳥越から走って撮影をしに行くのでございます!
なぜなら実際の距離感を肌で身をもって感じたいから!
郷土の歴史に興味を持つことで、脈々とその土地々々に根付いた歴史を顧みるきっかけとなり、郷土愛となって育まれて行く一面があるのだと考えられるにしても!!!
こんな路地までに看板があるとは、あと残り僅かであろう看板を探すにあたるハードルの高さを感じずにはいられません。
ですが、旧町名の復活を思えば!!!このくらいの苦労は何でもありませーーーん!
これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないと信じ続けている台東区の旧町名由来の看板探し!
いつもの通り町名の由来と町の歴史を書き写してまいります。
***旧町名由来案内「谷中上三崎北町」***
本町名のもとになった「谷中三崎町」は、元禄年間(1688~1704)のころすでに谷中村から別れ町屋を形成していた。「三崎」のいわれは幾つかあるが駒込、田端、谷中の三つの高台が見えることから名付けられたとするのが通説である。
明治五年(1872)谷中三崎町の東側に谷中上三崎南町・北町の二町が新たに命名された。被害側が地形的に谷中三崎町より高いことから上三崎町の名が付けられ、南・北は位置関係からこうよばれたようだ。
-日本画壇に尽くした画家ー
長安時に眠る狩野芳崖は江戸末期から明治時代に活躍した日本画家で、岡倉天心、橋本雅邦らと東京美術学校(現東京芸術大学)の創設に力を尽くした。下村観山は狩野芳崖、橋本雅邦に師事し東京美術学校教授に就くとともに日本芸術院の発展に力を注いだ。安立寺に永眠。
***下町まちしるべ***
上野の山には東京芸術大学=俗にゆう芸大があり、芸大に関係する芸術家もこの周辺で多く永眠していることが伺われます。
谷中周辺のお寺の門の前には、「○○の墓所」や「○○ゆかりの寺」など、史跡を示す看板が数多くございます。
きっと「へぇ~~~!」
と思うような著名な方に必ず出会うはずです。
60番目の紹介は、「谷中上三崎北町」の紹介でした。
台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧
◇復活願!旧町名のこと
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