浅草鳥越
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代表職人芳雲の木育て日記

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2022年8月15日(月)

台東区旧町名由来案内「旧谷中清水町」

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この町会で64町名目の紹介になります。

このシリーズを書き始めて9年も経っておりますが、

「旧町名について資料って何かお持ちですか?」なんて、お問合せがありますと、よかった~と思う瞬間でもあります。

 

 

そもそも、なぜ調べ始めたのか?といいますと、
木札のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。

 

現在の地名を入れる方、古い名称でお入れする方、「浅草」とか「上野」とか地域全体の呼称を入れて彫刻する方もいれば!武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、

 

 

それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。

現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。

鳥越祭三社祭神田祭

特に江戸の町名は、生活から出てきた名称が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、お祭りの時は氏子地域と云う事もあり、昔の区分けで催行されていたりします。

 

旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も適当な大きさの事が多く、とにかく分かりやすい!

 

がしかし、紹介の旧谷中清水町のある現住所表記は・・・

 

谷中一丁目?二丁目?四丁目?と、何町目ってどこ?

それよりも旧町名であるとおり「谷中清水町」「谷中三崎町」「谷中坂町」「谷中茶屋町」「谷中初音町」の方がピンポイントで位置が認識できると思うのです。

 

これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ

 

 

時代小説などでは上野山、寛永寺をはじめとした寺町として「谷中」の名称は度々出てまいりますが、その中の清水町。案内板を書き写してみたいと思います。

 

***旧町名由来案内「旧 谷中清水町(しみずちょう)」***

この地は、東叡山寛永寺創建後は寛永寺領地であったが、寛永十年(1633)松平伊豆守信綱が拝領した。代々松平の姓を名乗っていたが、信古(のぶひさ)の代になって大河内に改姓した。大河内信古は、豊橋藩主で七万石を領していた。明治五年(1872)、大河内家屋敷地を一町として起立し、町名を谷中清水町と命名した。

町名の由来は、護国院前に明治前まであった清水門にちなむという。

清水門の名称の由来については、この地に清水が湧いていたためとされている。

昭和四十二年(1967)、住居表示の実施で本町は三分された。大部分が池之端四丁目になり、あとは同三丁目と上野公園に編入された。

*******下町まちしるべ*******

 

上野の山から北西、谷根千で知られる根津方面へ下る坂の途中あたりでしょうか。

 

台東区地図内の谷中清水町の位置図

文中に出た護国院の位置も、下の区域図で確認できます。

 

現在の地図にあてはめた谷中清水町の区域図

 

江戸の寺町。浅草周辺にもお寺を散見いたしますが、上野の山=寛永寺周辺は、正にお寺の密集地。

 

64番目の紹介は、新寺町通の北側にある「谷中清水町」の紹介・・・

えっ、「谷中」について!書いてない?

 

これまでに纏めたINDEXページから「谷中町」でご紹介をしております。

台東区は、旧町名の宝庫的な地域!浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです>⇒旧町名案内 町名一覧

 

実際に走って看板を探している芳雲です

台東区鳥越の店舗のあった場所は、江戸時代には松平下総守様のお屋敷でした。その後、西鳥越という町名になり~の浅草鳥越1丁目へと町名へ。

蒲生彫刻は、昭和28年に先々代がこの地に移り住み、この地では私が三代目、蒲生彫刻の四代目。

 

木札づくりへの思い、どうぞ、ご覧ください。

 

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