旧町名シリーズの番外編!
いつもながら、記事の件名なが---っ。
「日本国道路元標」すなわち日本の道路の零点がある『日本橋と日本橋の新旧町名』について書くのですが、この記事内で使っている「日本橋町名勢ぞろい木札」34木、まとめてお一方にプレゼントしちゃいます!
日本橋の大きい「だるま札」も含めて現町名20木に加え旧13町名セットで、詳しくは引き続き本文をご覧ください。
さて、歴史文化遺産でもある〔旧町名〕復活は私の悲願でありますが、趣のある町名が消えていく要因って・・そもそも「東京都」は『東の京都』って短絡的でない?
って、ことに集約されるのではと感じてなりません。
なんで東の京都?
物心ついた時から、ずーーーと思い続けておりましたが、時代小説や歴史を学ぶにつれ、明治維新での急ぎ「江戸」の文字を抹殺せんとするのは致し方ないところとも思うのですが。。
その後、江戸文化の良さが至る所で認められるに至った昨今ですが・・・高度成長の名のもとに前東京オリンピックに向けて整理され、お隣中央区日本橋周辺でも「芳町」「薬研堀町」など風情のある町名が消滅してしまいました。
「日本橋 芳町」と横の柄「●●つなぎ」ですが、実は浅草北部にある場所と町名と繋がりがあるのです!
日本橋周辺の町名にルーツがあり現在も浅草北部にあるあの町!なんて雑学なども含めまして日本の零点『日本橋』をだらだらと語ってみたいと思います。
まず、地元台東区鳥越〔フダヤロゴ木札〕との位置関係を見てみます。
一番近いのは〔フダヤロゴ木札〕の左上、洋品問屋街で知られる「馬喰町(ばくろちょう)」で徒歩約10分程度、日本橋へも約30分程度で辿り着きます。
今日は、上野寛永寺への御成道でもある中央通りから日本橋へ進んでみたいと思います。
まず鳥越から蔵前通りを西へ向かい中央通りの交差点「末広町駅」の一角は『旧神田五軒町』。
この周辺は千代田区。
旧町名看板には江戸時代の古地図も掲載され瓦屋根がとても立派です!!!
この大通り、中央通りから秋葉原電気街を突っ切って一本道を南下し日本橋へ向かいます。
靖国通りの交差点付近は須田町や少し先の神田鍛冶町の旧町名看板は半纏型をしております。
江戸時代初期の浅草は全くの田舎で田んぼだらけ、神田川を渡った神田やこれから向かう日本橋周辺が江戸の中心的な町人地でありました。
さすが、お膝元の看板はどれも凝った造りです!
ほどなく、進みますと「室町3丁目」の交差点、
早くも奥に日本橋が見えてまりました。
ちなみに百貨店三越周辺が『室町(むろまち)』で、西側(進行方向右手)一本裏に「日本銀行」のある『本石町(ほんごうちょう)』、東側(左手)の一本裏は『本町(ほんちょう)』、そしてあっという間に日本橋に到着です。
この風景、いつ見ても思うこと・・・!
「何で日本の最重要地点でもある橋に蓋!?」をしてしまったのだろうか?
明治44年(1911)年に完成し、現在では重要文化財に指定(平成11年)されている日本を代表する建造物、親柱も素晴らしく立派です!
昭和39年(1964)の前東京オリンピックに向けての高度成長期に蓋をされてしまった訳ですが、都心に土地の余剰はなく唯一あった空間=堀川の上に道が通ることに、、、
堀川は江戸の象徴でもありましたので、東京の成長には不要と思われた時期があったということでしょうか。大好きな池波正太郎先生の小説でも日本橋の蓋や町名変更を常々嘆いておられる内容を多くみかけ、浅田次郎先生も町名変更でふるさとが無くなったと。。
車線の真ん中、辛うじて遠目にみえる「基準標」。
そのはるか頭上にアーチ型の街灯!?
よくみたら「道路元標地点」って書いてある、、、
そもそも首都高速を走っている人が日本橋を望むことができるのだろうか?
走っている人が、気にして読むのであろうか?
・・・渋滞してれば見られるかも、って肝心な零点が、そんな上かいなぁ~~~(笑)。
見られるかも!?といえば、1つとっておきの日本橋トリビアをご紹介いたします。
20代目の日本橋である現在の橋脚。1911年完成ですので100年を越えております。
この橋脚は花崗岩でできているそうですが、その橋脚の下には何と!!!
鍾乳石が育っているのです!
少し角度を変えてみましょう!
あっ、この鍾乳石の画像は船上から撮ったものです。
地上からですと手持ちカメラでは下の画像で限界でした。
こんな角度ですか鍾乳石は発見できるでしょうか?チャレンジしてみてください。
話を戻しまして、首都高速の蓋がかかる前の「道路元標」は北西岸、三越側に移設されております。
この道路元標が橋の真ん中に街灯として建っていたら趣もひとしおだぁ~
こんな風に地面に街灯の灯りが反射したりするのであろうか、、
新潟市まで344キロ、仙台市350キロ、青森市736キロ・・・
名古屋市350キロ、京都市503キロ、大阪市550キロ、下関1076キロ、鹿児島市1469キロ、、、
そんな中、首都高速の地中化が再びニュースにされる機会が増えてまいりました。
前回の東京オリンピックの時に蓋をしてしまったのですから、加えてこのコロナ禍は明治維新並みの出来事と考えるのであれば!
あるか?ないか?分かりませんが今回の東京オリンピックを機にガラガラポン!地中化してしまえーーーっ!
さらに!
いっそ東京都を「おえど」とか「おおえど」に改名!
「御江都」「大恵都」いくらでも新しくできそうだ!!!
さらにさらに!
町名も趣のある歴史的文化のある旧町名に復活~!
なんてね。
で、今はなき旧町名「日本橋 芳町(よしちょう)」。芳雲の「芳」の字と一緒!は、置いといて~
「芳町」の「よし」は、現在浅草北部にある花街「吉原」に語源を有する「よし」の音。
どういうことかといいますと、江戸初期、遊廓街の「吉原」は日本橋人形町にありました。
元々は「葭」の原っぱであったことから[葭(よし*葦など諸説あり)]の音を活かした縁起良い字[吉]として『吉原』に。
軒先に立てかける葭簀(よしず)の『葭』の原っぱという意。
江戸初期の急速な街の発展により武家地や町人地の不足により、幕府命令で遊郭が移動ということになったのですが、きしくも江戸の大半を焼き尽くす明暦の大火(1657)があり移転がすすみました。
移転した浅草北部の吉原は「新吉原」、元の人形町は「元吉原」と呼ばれたと、見慣れた地元台東区の旧町名由来にも記してありました。
その名残りとして「吉」を別の縁起の良い文字「芳」として音が残り『芳町(よしちょう)』として昭和初期まであったのでございます。
思わぬところから日本橋と地元台東区との繋がりを発見。歴史の面白い所です。
だらだらと語り過ぎてしまいました。あっーーー!!!
「日本橋町名勢ぞろい木札」のプレゼント!!!差し上げるのは中央から左側の日本橋34木、もちろん紐も付けてお届けします!(右の菊の紋と葵の紋は皇居との位置関係を記すために配置)
詳細は!長くなってしまったので、、、次の記事に企画として掲載させて頂きます。
旧町名番外編 お時間あれば是非!
10.上野戦争(戊申150年 旧暦5.15 新暦7.4今日) 旧町名由来案内特別編「旧東黒門町」
9.鳥越川 新堀川 三味線堀~鳥越橋~大川(隅田川)への流れ暗渠
◇復活願!旧町名のこと
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