ほんの150年前、上野で戦争がありました。今日、新暦7月4日は、旧暦だと5月15日。
慶応4年(1868)、徳川幕府が大政奉還した後、江戸城を無血開城(旧暦3.13新暦4.5)、15代徳川慶喜将軍は水戸に謹慎となりましたが、徳川家の菩提寺でもある上野寛永寺には、抗戦派の彰義隊が集結して新政府軍との戦闘がありました。
この戦争、新政府側の総大将は「西郷どん」、戊申150年の節目の年に大河をしていることが何となく分かるような気がしてまいります。
この上野公園にある西郷隆盛像の背後にあるのが、徳川幕府の家臣であり抗戦派の諸士などが集まった彰義隊の墓所であります。
「墓所」。上野戦争で一番激烈な戦闘があったのが、この墓所の脇にあったとされる寛永寺の南側の門「黒門」をへだてた攻防戦。
圧倒的な戦力を持った新政府軍が約10時間程で旧幕軍は全滅し終結したとされていますが、「西郷隆盛」の時代小説も手掛けた池波正太郎の著書によると、
この戦争は局所限定的で、上野から程近い浅草の住民は、普通に銭湯に通っていたという記載もあるように、旧幕軍だけを狙った極めて限定的な戦闘であったことが覗えます。
江戸の町を戦火で焼き尽くされることを憚った、西郷隆盛、勝海舟の無血開城であった約束が、この点ではある意味果たされたのではないかと私は考えます。
150年、長いと考えるか直ぐ前の事と考えるか・・・我が地元上野で戦争が有ったとは思いもよりません。
それほど長くないと考えるのは、当時の遺構が残っているということ。黒門の遺構には弾痕の跡がそのまま現存(再現?)、台東区の北端三ノ輪のすぐ先、国道4号線沿い荒川区の円通寺に移築されています。
前置きがかなり長くなってしまいまいたが、本題である旧町名シリーズ!特別編!!!
それでは、いつもの通り町名の由来と町の歴史を書き写してみたいと思います。
***旧町名由来案内「東黒門町」***
東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永(1626)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が『問う叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉』と述べられているのに由来する。
上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869)、御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。翌三年、東京府の近代都市政策のもと、下谷第三十九番組に属し、地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして、明治五年(1872)付近の武家屋敷を合併し、本町は形づくられた。明治四十四年に上野の二字をはずし、東黒門町となった。
*******下町まちしるべ*******
上野公園南端から黒門町方面を見ます。
信号の先、右手、鈴本演芸場の辺りが元黒門町。
さらに先の上野松坂屋の向いが「西黒門町」、松坂屋の先の左手が今回の「東黒門町」、町名由来看板の所在地であります。
次は東黒門町から上野の山への視線。
台東区内の位置関係はこんな感じです。西に上野、東に浅草、南が浅草橋、その間に位置するのがフダヤドットコムのある鳥越(笑)。
???
寛永寺の黒門、いったいどの辺にあった?
この際なので・・・上野公園南側入り口、交番のよこから噴水方面へ進み、一番最初のちょっと開けたところ、
はい、右上に清水観音堂がある下のあたりの丘のふもとに、
四角い石が見受けられます。
黒門の土台。その横には黒門の石碑が!
えーーー!?
『黒門の5代目が腐朽し6代目を建て当時の激戦を忠実に模刻した・・・昭和三十九年秋、、、』
あら?
では、円通寺の黒門はレプリカ?
まだ調べる余地がありそうですが、上野周辺にもう1つ当時の遺構を見ることができます。
現、東京国立博物館の横にある寛永寺輪王殿の門は、
寛永寺の表門「本坊表門」が、そのまま移築され、そこには、激戦を物語る弾痕が残されており・・・
まだまだ、調べる所が沢山ありそうですが、どうしても今日、新暦7月4日、旧暦5月15日、こんな梅雨時期の近くであった出来事、それも丁度150年前の出来事にふれてみたいと思った次第です。
残念ながら現在「黒門町」の町名は残っておりませんが、まだまだ、知りたい地元の事、たくさんありそうです。
旧町名シリーズ、56番目の紹介は、「東黒門町」の紹介でした。
台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧
◇復活願!旧町名のこと
の記事