このシリーズ49番目のご紹介になります「台東区内の旧町名シリーズ」。
そもそも、なぜこの旧町名の由来を調べているのか?
なぜ調べ始めたのか?といいますと、
お木様(おこさま:木札)のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。
現在の地名を入れる方も多くいらっしゃいますが、
古い名称でお入れする方も本当に多いんです。
「浅草」とか「上野」とか地域全体の呼称を入れて彫刻する方もいれば!武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、
それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。
現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。
特に江戸の町名は、生活から出てきた名称が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、お祭りの時は氏子地域と云う事もあり、昔の区分けで催行されていたりします。
旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も適当な大きさの事が多く、とにかく分かりやすい!
これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ
周辺の街並みも知れたらと思い、自分の脚で探しているのですが!
鳥越方面から通りやすい道、通りにくい道が方向的にありまして・・・こちらから行くと見えないし、
こちらから行けば、すぐに見つかりますが、
鳥越からだとなかなかこの道を通る機会がかかったり・・・
町をジグザグに走っております(笑)
この町名は、昭和16年に付けられた比較的新しい町名ですが、昭和の大改正で既に現町名としても残っていません。
さて、いつもの通り書き写してみます。
***旧町名由来案内「旧 浅草桂町」***
文化十四年(1817)の火事で小石川と富坂町(現文京区)の地が幕府に没収され、この地が代地となった。そして小石川富坂町代地と呼ばれたが、天保九年(1838)に浅草富坂町と改称された。明治五年、隣接地を併せて町域を広げるとともに、浅草南富坂町および浅草北富坂町にわけられた。
昭和十六年(1941)浅草北富坂町を中心に同南富坂町の東部などを合併し、浅草桂町が誕生した。町名は、地元が生んだ政治家頼母木桂吉の功績をたたえるため、地元の強い要望で名前の一字をとって名付られた。
頼母木桂吉は逓信大臣をつとめ、昭和十四年に東京市長になったが、翌十五年おしくも現職のまま没した。
*******下町まちしるべ*******
蔵前に「頼母木桂吉」という政治家がいらしたんですね。
しかも、地元から強い要望で町名にまで推されるほどの!
残念ながら、現町名としては残っていませんが「鳥越神社の氏子町会名『三桂町会』として『桂の字』は継承されています。<
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そして、その前は「浅草富坂町」、小石川の富坂ともご縁があったとは!
増々、旧町名への興味が湧いてきます。いずれ調べてまとめたいと思います。
49番目の紹介は、蔵前にあった「浅草桂町」の紹介でした。
台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧
◇復活願!旧町名のこと
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