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2016年1月30日(土)

旧町名由来案内「旧浅草北清島町」

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そもそも、なぜこの旧町名の由来を調べているのか?

なぜ調べ始めたのか?といいますと、
お木様(おこさま:木札)のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。

現在の地名を入れる方も多くいらっしゃいますが、
古い名称でお入れする方も本当に多いんです。

「浅草」とか「上野」とか地域全体の呼称を入れて彫刻する方もいれば!武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、

それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。

現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。

特に江戸の町名は、生活から出てきた名称が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、お祭りの時は氏子地域と云う事もあり、昔の区分けで催行されていたりします。

鳥越祭三社祭神田祭

旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も適当な大きさの事が多く、とにかく分かりやすい!

浅草北清島町南側浅草通り(旧寺町通り)

これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ

浅草北清島町

時代小説などでは浅草と上野を繋ぐ「新寺町の大通り(新寺町通り)」としても良く出てくるこの道、現在の呼称は「浅草通り」。この浅草通りを南端とする旧町名の紹介です。

***旧町名由来案内「旧 浅草北清島町」***

本町は浅草清島町が新寺通り(現浅草通)を境にして南北二つに分けられ誕生した。明治五年(1872)のことである。もとになった浅草清島町は同二年実施の市制改革に伴ってできた町で町名の由来はよくわからならい。
この付近は明暦の大火後、幕府の政策により寺院が移り街を形成したことから新寺町と言われていた。震災・戦災にもかかわらず今なお寺院が多く、静かなたたずまいを見せている。

―本町の見どころ―
坂東報恩寺の俎開きは一月一二日に行われる包丁始め。古式にのっとり鯉に手を触れることなく包丁で料理をする四条流家元の見事な手さばきは見ものである。源空寺には谷文晁、伊能忠敬、番随院長兵衛、高橋東岡など歴史上の人物が眠る。
*******下町まちしるべ*******

たまに出ますがご了承ください、、、町名由来の不明。

日本地名大辞典(東京都版)にも、由来は出ておりませんでしたが!!!

清島町の由来は不明

あの日本地図を始めて実測して完成させた「伊能忠敬」が眠るお寺もあるのですね。由来が分からなくても、こうした歴史的な雑学を覚えられる事は、それはそれでとても有難いことです。

台東区地図内の浅草北清島町の位置図
浅草北清島町位置図

この下の町内区域図には、「伊能忠敬」も眠る源空寺の位置も記してあります。

現在の地図にあてはめた浅草北清島町の区域図
浅草北清島町区域図

江戸の寺町、ということは、江戸の著名な方も沢山眠っているということですね。一番、大きくて有名な墓地は上野の山のあそこですが、次は、そのあそこ周辺を探索してみたいと思います。

44番目の紹介は、新寺町通の北側にある「浅草北清島町」の紹介でした。

台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです>⇒旧町名案内 町名一覧

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