浅草鳥越
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2015年2月14日(土)

旧町名由来案内「旧浅草田原町一、二、三丁目」

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そもそも、なぜこの旧町名の由来を調べているのか?

この町名で39番目になりますので、シリーズでご覧下さっている方は、どうぞ下へ飛ばしてくださいませ。
旧町名一覧は、記事の下にもありますが⇒⇒旧町名案内 町名一覧

なぜ調べ始めたのか?といいますと、
お木様(おこさま:木札)のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。

現在の地名を入れる方も多くいらっしゃいますが、
古い名称でお入れする方も本当に多いんです。

お仲間で揃ってご依頼の時は、特に多いんです。

町名だけを入れたり、何丁目は入れないまでも●●町壱、●●町弐とか丁目まで入れる方、

田原町を彫刻した木札

また、武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、
鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、

それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。

現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。
しかしながら、これだけご依頼をいただくということは、今でも深く印象に残っているということ。

特に江戸の地名などは、生活から出てきた町名が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、

元三嶋神社鮫洲八幡祭深川祭

旧町名は、同じ町名でもせいぜい二丁目くらいまでしかなく、現表記では○○五丁目と○○七丁目とか、広すぎてどこが何丁目だかわからない。

鳥越祭三社祭神田祭

一方旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も広くないので、とにかく分かりやすい!

これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ

浅草田原町

営団地下鉄銀座線の駅名では残っていますが現町名で残っていない・・・その田原町の旧町名案内から見える風景は!ニン

浅草田原町から雷門通りからスカイツリー

 田原町って駅があるから田原町があるかと思いきや・・

現町名ではないんです。。旧町名復活すればいいのに・・・

の、想いを込めて旧町名由来案内より書き写してみたいと思います。

***旧町名由来案内「旧 浅草田原町一、二、三丁目」***

この地は昔、浅草寺領の田圃であった。当時は紙漉(かみすき)を業とするものがいたので紙漉町といわれていた。その後、多くの人が住むようになり、寛文の頃(1661-1672)には町が形成されたことから、三丁にわけられ浅草田原町と称した。町名は、もと田畑であったことにちなむという。
明治五年、三丁目が雷門通りをはさんで南北にわけられた。南側はこれまでどおり浅草田原町三丁目とし、北側は浅草北田原町三丁目となった。その後、明治九年に一丁目の南側を浅草寿三丁目に割譲して町域が定まった。
田原町の名は、地下鉄銀座線の駅名として残っている。大勢の人が乗り降りし、浅草界隈の便利な足となている。
*******下町まちしるべ*******

浅草の唄ってご存知ですか?

よく浅草界隈出身の特にお祭り好きがよく唄う歌なんですが、その一節に・・

田原ぁ~♪まちかぁら~♪雷門~♪て、節があるのですが、

台東区地図内の旧浅草田原町一、二、三丁目の位置図
浅草田原町位置図

上野から向かった浅草メイン地区へ入口といってもよいでしょうか。

これだけ知れた町名だと「現町名」で無いのが不思議なくらい。。

現在の地図にあてはめた旧浅草田原町一、二、三丁目の区域図
浅草田原町区域図

三社祭では、「雷門田原町町会」として氏子祭礼の中で町会名は残っております。

田原町を彫刻した木札を取付け

旧町名・・・歴史的文化遺産の復活を願うばかりです。

台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧

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