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第7番目の登場は!
じゃじゃん!!!
プロフィール画像でも使わせていただき、
三社祭でもお世話になっております『 浅草駒形町会 』です。
お友達で「最中(もなか)カワの新しい未来を切り開いている梅ちゃん」よりリクエストを頂戴しましたので・・・
「ガモさん!それって駒形にありました???」
良い質問です!
地元も方も、意識していても見つかりにくい(笑)
だって、梅ちゃんの所からこの場所へ向かうとこんな感じぃ~
走っていると見逃してしまうかもしれませんが、ゆっくりと御上りさんの如くキョロキョロ歩けば、見えるかもしれません。。
こんな感じで佇んでおりますので、思わぬところで遭遇した時には・・・
でれぇーーーっと、笑ってしまいます。
毎日が、宝探しのような気分で結構、楽しんでおります。
それでは、例によって旧町名由来案内より書き写してみたいと思います。
***旧町名由来案内「旧 浅草駒形一・二丁目」***
本町は、昭和九年(1934)浅草黒船町の一部、同新猿屋町、同諏訪町、同新福富町、同寿町の無番地、同駒形町の大部、同三間町の一部を合併し一・二丁目にわけられて誕生した。
このうち、駒形町の起立時代は古く、寛文図(1671年頃)には既に「こまがた丁」と書かれている。町名の由来については、馬頭観音の堂すなわち駒形堂があったのにちなんだ。駒形堂は雷門二丁目、ちょうど駒形橋西詰北側に現存している。関東大震災で駒形橋西詰南側にあったものが移されたためである。では、駒形堂の命名の由来は何なのか。幾つかの説を記す。
隅田川を船で上下しながらこの堂を見ると、まるで白駒が馳せているようなので”駒がけ”といった。それが”駒がた”に転化した。(江戸名所記説)
観音様へ寄進する絵馬を掛けたので駒掛け堂と名付けたのが訛った。(燕石雑誌説)
駒形神を相州箱根山から観請したのにちなむ。(大日本地名辞書説)
昭和三十九年(1964)年、住居表示の実施で国道六号の西側が駒形一丁目、東側隅田川沿いが駒形二丁目になった。
*******下町まちしるべ*******
台東区地図内の旧浅草駒形一・二丁目の位置図
せっかく見つけたと思ったのに、名前の由来が3つもあるとは・・・
駒駆け 駒掛け 駒形神
現在の地図にあてはめた旧浅草駒形一・二丁目の区域図
観音様の絵馬をかけるには、ちょっと遠いし・・・
私的には、「駒駆け」説が楽しそうな由来だなぁ~
梅ちゃん、そして地元駒形の方はどの説が有力だと思っているのでしょう?
7番目のご紹介『 浅草駒形町会 』でした。
旧町名由来シリーズ、こちらのテーマでどんどん増やしてまいります。
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