旧町名復活しないかな~と思い、願い、まずは知識の吸収からと地元台東区の旧町名を調べ始め、探し当てた、この旧町名案内シリーズ。
23番目に紹介する旧町会は、合羽橋道具街の南端、
浅草と上野の中間にある
合羽橋商店街のランドマーク新実のおじさんのいる「菊屋橋の交差点」。
南北に走るこの道具街の道は「新堀通り」といいます。
その名の通り、元は川が通っていて「菊屋橋」という橋がかかっていたそうです。
こんな橋だったか、どうかはわかりませんが・・・
昔も今も台東区の二大繁華街である、浅草と上野。
当時の交通事情から考えますと交通の要所で合った事は、間違いありません。
この交差点の南、新堀をまたいで両側町である「旧浅草菊屋橋一・二丁目」。
新堀通りから少し西へ入った所に公園の名前としても残っております。
あっ!町名の由来・・さんざん言ってしまいましね。
23番目の紹介になります。町名由来案内板、例によって書き写してみたいと思います。
***旧町名由来案内「旧 浅草菊屋橋一・二丁目」***
本町は、昭和十一年(1936)年に江戸・明治時代からの浅草栄久町の北半分、同阿部川町の南半分、同森下町の西隅を合わせ一丁目となり、同栄久町の北部、同阿部川町の北半分、同南松山町の東側大部分を合わせ二丁目として起立した。
町名の由来は、この地の中央部を南北に流れていた新堀川の橋である菊屋橋にちなんで付けられた。菊屋橋は、下谷と浅草を無図部、江戸時代以来の主要道路の新寺通りを渡す橋だった。新寺通りは現在の浅草通りである。
浅草栄久町は、明治二年(1869)に浄念寺、東漸寺、天台龍寶寺、善照寺、常福寺、実相寺、本法寺、浄土龍寶寺の八か寺の門前町を合わせ起立した。
浅草阿部川町は、元禄九年(1696)、それまでの幕府下級官吏の大縄拝領地から代官細井九左衛門の支配地となり、その翌年誕生した町である。町名は、この地の地主が皆現静岡市内の安倍川から移ってきた者であったため付けられた。
*******下町まちしるべ*******
先日みつけた辞典で栄久町の由来を確認しますと、
「由来は不詳、おそらく嘉字を選んであてたものであろう。(明治2年~昭和16年)」と、あります。
町名としては「阿部川町」「栄久町」と順に古いのですが、交通の要所でもあり名所である「菊屋橋」の名称が一番最近まで町名に残った訳です。
台東区地図内の浅草菊屋橋一・二丁目の位置図(緑部)
栄久町は、鳥越神社氏子町会として残っておりますが、文献によると現在の町会域よりも南に大きかったのでしょうか。
現在の地図にあてはめた浅草菊屋橋一・二丁目区域図(緑部)
この町域が3町会に分かれている訳ですが、
昨年(平成25年)の鳥越神社御本社神輿の朱引きで確認してみます。
先ほどの区域図を色分けすると・・・
こんな感じになります。
残念ながら、この3町名全て現住所表記には使用されておりますせん。
池波先生の時代小説には「阿部川町」よく出てくるんですけどねぇ。。
その中で最後に住所表記で残ったのは、橋の名であった「菊屋橋」。
でもですね、鳥越神社のお祭りでは3町名とも現存した町会名であります。
23番目の紹介になりました『浅草菊屋橋一・二丁目』と「阿部川町・栄久町」の紹介でした。
台東区を散策なさる時も、お役にたてれば幸いです。
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◇復活願!旧町名のこと
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