『鳥越神社氏子十八ヶ町』、何となく18町会より多いんでない!?
まぁ、経緯は分からないけど18町会より多いことに気付いていらっしゃる方は多いと思いますが!
「十八ヶ町」と呼ぶようになった18町会ってどの町会だった?を知っている方は、ほぼいないのではないでしょうか。
まず最初に現在は何町会あるのか?
現在は23町会あり、現状に際していうのであれば「二十三ヶ町」ということになりますが、
発会当時の『十八ヶ町』で名が通り知れて語呂も良いということで、そのまま使用しております。
朝からの渡御順に番号が振ってありますが、
あれ?
と、気付く方もいらっしゃると思います。
確かに最後の「東三筋町会」は23番だけど、お昼の『駐輿式』にも番号が振ってあるから22町会じゃないの!?
それでは、もう片面の「朱引き」と言われる順路の書かれている氏子地域図を見てみましょう!
1、2、3、4、5・・・やはり22。
御本社神輿が回る順路全て足しても22しかない。
順路表の右下に
赤字は町会名
『志ん猿』
って何だろう?お神輿も回らないし何だろう!?
『志ん猿』で23町会となります。
この「志ん猿」は俗称で、正しい町名としては『新猿屋町』が正しい表記で浅草駒形にある浅草消防署の一角が鳥越神社の氏子の飛び地であります。お神輿の右側が「新猿屋町」、左側が「猿屋町」、しかし「新旧猿屋町」ともに現在は町名が残っておりません。
昭和30年代までは、本社神輿と大連合が隔年で行われていたと聞き及びますが、いずれにしても鳥越氏子のお神輿が駒形の新猿屋町まで回っていたことが分かります。
ついで、新のつかない元の「猿屋町」は現在の「浅三町会」。この猿屋町の一部が江戸時代に幕府の命令により町の一角毎移動して移ったのが『新猿屋町』で、氏子範囲毎移転となったのでございます。
23町会については紹介が終わりました。
さて、肝心な元の『十八ヶ町』の18町会はどこ!?
さきほどの明治期と思われる朱引きですが、明治期だとすると氏子睦會が発足する前で武家屋敷も多く明らかに町会数が少ないことが見て取れます。
そこで、平成24年に100周年を迎えた神社直属の組織である『鳥越神社氏子十八ヶ町睦会』の創立100周年の記念誌を見てました。
そこには、創立時十八ヶ町の記載はなく、会の起こり
として結成以前は「八ヶ町」の連絡機関があったと記されています。
その後、自分なりに色々な文献などを探してみましたが17町会までは確認できたのですが、もう1町会はどこ!?
平成24年(2012)が100周年とすると大正元年か2年が睦会の創立。
何かヒントがあるか!?大正15年の朱引きを見直してみよう!
1.元鳥越町
2.西鳥越町
3.向柳原一丁目
4.向柳原二丁目
5.二長町
6.猿屋町
7.小島町
8.東三筋町
9.西三筋町
10.北三筋町
11.栄久町
12.阿部川町
13.南松山町
14.北松山町
15.七軒町
16.永住町
17.新猿屋町
降参・・・
ということで、神社に直接聞いちゃいました!
とですね、、、有難いことに大騒ぎになってしまいまして、睦会の議事録や資料などはないようで、色々な冊子文献を調べて下さいました。
で、出てきたのが「昭和5年頃の鳥越神社氏子十八ヶ町の町名と戸数表」
きたーーーっ!
完璧でございます。いきなり2番目に書いてありました!!!
【 老松町 おいまつちょう】
今は宮元町会の一部ですね。
スッキリーーー!
恐らく、、、地元の人も、元の十八ヶ町を全部言える人は数少ないと思います。
よく見ると「現神社の町名」とか「現町名」当時の「戸数」も書いてあり益々興味が湧いてきます。
さて、令和2年のお祭りはコロナ禍の中、中止となってしまいましたが早期の終息を願うばかり・・・
あっ!
この記事の為に作った「二十三ヶ町」の黒檀まぐろ木札、勢いよく作ってしまいましたが、ぜひ、どなたかお使い頂きたく存じます。
御代は頂戴しませんが1町会1木限りでございます。
サービス品なので発送は致しません。店舗まで取りに来てくださる方、お1人様1木ということでお願いしたいと思います。
◇鳥越・浅草周辺散策
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