好きが高じて、また土地柄もあり興味を持ち始めた、地元『台東区』の旧町名。
よく「どちらから?」と、住まいを聴かれても
「台東区!!!」
「だ・い・と・う??・・・・・・」の雰囲気の事がよくあります。
それよりも!
「浅草です!上野の近くです!」とか最近では「秋葉原も歩いて行けま~す」
と、伝えた方が伝わりやすい。
浅草区と下谷区が合併して
「台東区(たいとうく)」となってから68年しか経っておりませんので、
浅草、上野と言った方が分かりやすいのは言うまでもありません。。
その台東区内には、現町名として残っている地域もありますが、、
文化遺産とも云っても言い過ぎではないと思われる「旧町名」復活しないかな~と思い、願い、まずは知識の吸収からと地元台東区の旧町名を調べ始め、探し当てた、この旧町名案内シリーズ。
⇒戻したい町名の年代
本日、紹介するこの旧町名。
「鬼平犯科帳」や「剣客商売」などで『柳原土手』として良く出てくる神田川の周辺。
大川(隅田川)の支流で、これを遡って行くと浅草橋からお茶の水や水道橋の駅の下に流れるあの川です。
どちらも、大川を背に上流に向かって撮影しているので、左岸が江戸城方面、右岸が浅草ということになります。
江戸の地名などは、生活から出てきた町名が多く風情があり、そして覚えやすい!また、時代小説などでも度々登場し、文化遺産としての価値も高いのではと興味を持った訳であります。
せっかくなら、これだけ情報処理能力が発達した現代であれば、旧町名復活も夢ではないのではと思い、まずは、自分で出来る事!!!と思い始めた台東区内にある旧町名由来掲示板探しが始まりました!
実際の距離感は自分の足で!
ランニングをしながら探し見つけて写真を撮っております。
私が通った母校。「柳北小学校」現在合併して校名は無くなってしまいました。
よくこの公園で遊んだな~
***旧町名由来案内「旧 浅草向柳原町」***
この地域は江戸時代から大名・旗本・御家人の住む武家地屋敷であった。明治政府は新しい時代のまちづくりをするため武家屋敷地を一般住民の住む町へと変えていった。向柳原町はこのような時代背景をもつ明治五年(1872)に誕生した。
町名は、神田川の南側(現千代田区)にあった柳原がもとになっている。神田の柳原に対することから向柳原町となった。そして柳原の由来は、現在の万世橋から柳橋にかけての神田川南岸沿に柳が数多く植えられていたことにちなんでいる。
肥前平戸藩松浦邸内には「蓬莱園」と呼ぶ廻遊式の庭園があった。寛永九年(1632)に松浦隆信が幕府からこの地を別邸として与えられたとき、庭園づくりの名人といわれた小堀遠州に造らせたものである。惜しくも関東大震災のため大部分が失われてしまったが今も都立忍岡高校敷地内に銀杏の巨木と小さな池が当時の名残をとどめている。
*******下町まちしるべ*******
「柳北音頭(りゅうほくおんど)」という、柳北小学校制定100周年記念に制定された「盆踊りの唄」があるのですが、その歌詞の中に、
「都お江戸の松浦さまの都なつかし柳北は~♪」と云うくだりがありまして、
昔は、韻として捉えておりましたが、なるほどなるほど、松浦さまの御屋敷があったのか~
台東区地図内の浅草向柳原町の位置図(緑部)
柳原の向こう側=向柳原
柳原の北側だから柳北!そうか、母校校名の由来も見えてまります。
このように小学校や公園の名に旧町名が残っていることが多々あります。
しかし、少子化による合併でその校名も消えつつあり・・・
こうして石碑として残るだけになってしまうのでしょうか。
そう考えると、ちょっと寂しい。。。
何とか歴史文化を残すきっかけがないものか。
現在の地図にあてはめた浅草向柳原町区域図(緑部)
灯を絶やさないよう、コツコツと続けてまいります。
37番目の紹介になりました「旧浅草向柳原町」でした。
その他の町名も随時更新いたします。台東区散策のお役に立てば幸いです