浅草鳥越
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代表職人芳雲の木育て日記

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2016年9月6日(火)

旧町名由来案内「旧浅草三筋町一丁目・二丁目」

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さて、 「台東区内の旧町名シリーズ」51番目、、、

「51」番目をどこにしようか、悩み続けて2か月余り。。

 

途中にですね!

いつもプレイしている『旧チョメGO!』ってゲームの事を書いたり(笑)

 

やはりご近所の町会がいいな~と思い、鳥越のお隣「三筋町」。

 

そもそも、なぜこの旧町名の由来を調べているのか?

なぜ調べ始めたのか?といいますと、 お木様(おこさま:木札)のご依頼で、思い入れのある地名を入れる方がとても多くいらっしゃいます。

 

 現在の地名を入れる方も多くいらっしゃいますが、 古い名称でお入れする方も本当に多いんです。 「浅草」とか「上野」とか地域全体の呼称を入れて彫刻する方もいれば!武州・信州・備前・筑前など大きく地方名を入れる方、鳥越、小島、佐竹など小さく町名を入れる方さまざまなんですが、

 

町名入 木札

それだけ、現代の地名だけでなく古くからの呼称も含めて、地名に対しての思い入れがとても強い事を感じる訳です。

 

 現在では、そうした名称が実際には残っていないことも多々あります。 特に江戸の町名は、生活から出てきた名称が多く、風情があり、何と言っても覚えやすい!お祭りなどの町会名は、旧町名の町会も多く、お祭りの時は氏子地域と云う事もあり、昔の区分けで催行されていたりします。

 

 

旧町名は、その土地に根付いた生活から出てきた町名が多く町域も適当な大きさの事が多く、とにかく分かりやすい!

 

 公園や小学校の名称で、旧町名が残っていることが良くあります。

しかし、これだけ情報処理能力が進んだ現代なら、旧町名復活も夢ではないのかと思い、まずは地元を知ろうと思って見付けたのが、街中にひっそりと建てられていたコレ

 

 

表通りだけでなく、小さな公園、公共施設にも建てられている事が多々あり、最近は探すのにもめっきり苦労するようになりました。

 

 

それでは、いつものように案内板を書き写してみたいと思います。

 

***旧町名由来案内「旧 浅草三筋町一丁目・二丁目」***

 この地は、江戸期より書院番組屋敷地、大番組屋敷地および武家屋敷地であった。明治維新後、江戸期の武家地は整理されて市街地に組み入れられていった。その過程の中で、町名三筋の誕生は、明治五年(1872)八月であった。

 昭和十六年(1941)、浅草三筋町一・二丁目は誕生した。一丁目は浅草栄久町南側半分、西三筋町、同東三筋町、同南富坂町西一部、同南元町西一部を合した。二丁目は浅草栄久町の南側一部と同北三筋町の大部分を中心に、同森下町西一部を合わせた。

 三筋町の名は、幕府下級官吏の屋敷町で、そこに三筋の道があったことにちなむとも、三筋の組屋敷があったからともいう。

 本町には、アララギ派の歌人で歌学者、医者として有名な文化勲章受章左派の斎藤茂吉が住んでいた。その茂吉が長崎医専の教授をしていた時に、三筋町をなつかしんで詠んだ歌で「浅草の三筋町なるおもひでもうたかたの如や過ぎゆく光の如や」の文学記念碑が三筋二丁目にある。

*******下町まちしるべ*******

 

三筋の道か、はたまた三筋の組屋敷か・・・

 

台東区地図内の三筋町一丁目二丁目の位置図

幕末の地図をみると、、、三筋の組屋敷かな・・・と想像。

隠れキャラ 地図

現在の地図にあてはめた松葉町の区域図 松葉町区域図

 

ちょっと、他の資料も調べてみたくなりました。

 

 

51番目の紹介は、鳥越のお隣「浅草三筋町一丁目・二丁目」の紹介でした。

 

 台東区は、旧町名の宝庫的な地域であります。浅草・上野界隈など台東区周辺を散策する時のお役に立てば幸いです⇒旧町名案内 町名一覧

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