浅草鳥越
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2014年1月17日(金)

旧町名由来案内「旧二長町」

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旧町名復活しないかな~と思い、願い、まずは知識の吸収からと地元台東区の旧町名を調べ始めた、この旧町名案内シリーズ

「御徒町」を紹介の予定でしたが!その前に1つ鳥越のお隣、「御徒町」との間にあった、この旧町名をご紹介しておきたいと思います。

皆さん、歌舞伎と言って思い浮かべるのは?

東銀座の歌舞伎座や西は京都四条だったり、、
その昔は、観音裏の浅草猿若町に歌舞伎があったことは旧町名にも残っている通り知られておりますが!!!

歌舞伎座前

 明治の中頃には、我が地元・・鳥越のすぐ隣町でこんな風景がみられたのでしょうか?

二長町 旧町名

 我が鳥越一丁目周辺には、映画館が三つもあったとありましたし、本当にこの辺りは興行の地として浅草の次に栄えていたんですね。

二長町

 我が鳥越1丁目の真西のお隣、18番目の紹介になります。
町名由来案内板、例によって書き写してみたいと思います。

***旧町名由来案内「旧 二長町」***

町の起立は明治五年(1872)である。対馬の宗家厳原藩と伊勢国の久居に陣屋を構えた久居藩の邸地そして周辺の武家地を合併して二長町とした。
町名はこの地が江戸時代より「二丁町」と呼ばれていたことに由来する。二長町とは、この地を東西に横切る小路につけられたとされているが、その由来はあきらかではない。この小路が東西に二丁あったからではないだろうか。
江戸時代は武家地であったため町名が付されてなく、町としての発展は二長町となった明治以降である。特に明治二十五年(1892)浅草猿若町から市村座がこの地に移転して来てから賑わい始め、二長町の名は東京中に知れ渡った。明治三十年代頃、東京郵便局厩舎課があり、市内に郵便物を輸送する赤塗りの馬車が発散集合していたことも「新撰東京名所図会」は述べている。
昭和三十九年(1964)住居表示の実施で、蔵前橋通りの南側が台東一丁目に、北側が同二丁目に編入された。
*******下町まちしるべ*******

 明治二十五年から、関東大震災で焼失したものの仮建築で復興し、昭和七年に焼失するまで市村座はあったそうです。

台東区地図内の二長町の位置図(緑部)

二長町位置図

跡地の看板なんかもあったりするのですが・・・

撮るのを忘れました。。この看板の近くにありますので、

現在の地図にあてはめた二長町区域図(緑部)

二長町区域図

80年前かぁ・・・

歌舞伎市村座があった二長町

 そろそろ、町の長老様にお話を聴く頃かもしれませんね。

18番目の紹介になりました、我が鳥越のすぐ隣で御徒町との間にある『二長町』の紹介でした。次こそ『 御徒町 』を紹介したいと思います。

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